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伝伝虫通信バックナンバー 通巻27号
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世界中で児童労働に従事している子どもたちは、約2億1,800万人

児童労働とは・・・概ね15才未満の子どもたちが、十分な教育や成長の機会を与えられずに働くことをいいます。また、18才未満の子どもが心身の健康、安全、道徳を害するおそれのある労働に従事している場合は「最悪の形態の児童労働」といいます。

働く子どもたち エピソード11

ネパール連邦民主共和国
面積:140,800k㎡(日本の約1.8倍)
人口:約2,933万人 首都:カトマンズ

将来の夢はコックさん

将来の夢はコックさんネパールの首都カトマンズから西へ約300kmに位置するルンビニ州ナワルパラシ県ハルディア村。ルンビニは仏様の生誕地としても有名だが、近年、過激な犯罪が多く外務省が危険地域として渡航者に注意を促すレッドゾーンでもある。

早朝6時に東部山岳地帯のカブレパランチョー郡パンチカール村近くのホテルを出発。超高速の乱暴運転でデコボコ道を走り、8時間かけてやっとハルディア村に到着した。待ち合わせ場所ではブッダ・クノル氏と長男が待っていた。日本で言えば中学1年生ぐらいの息子に「ナマステ」と声をかけた。初めて会った外国人であるせいか、彼はガチガチに緊張してやっと聞こえる程度の小さな声で「ナマステ」と答えた。

大通りからさらに20分ほど中に入ったところがバルディア村だ。約80世帯、人口700名ほどの小さな集落。迎えに来てくれた少年の名前はラジュ・クマル。年齢は14歳。ナワルパラシの中学校に通っている。

少年の自宅でしばらく休憩してから村の調査に入った。村の貧しさは深刻だ。トイレの無い家がかなり多く、女性達が非常に困っている。年頃の娘達が野原で用を足すのは死ぬほどの恥ずかしさだ。井戸が無い家も多く、その家々では泥水を飲んでいる。豊かな国、日本で暮らしていると、人間が暮らしていく上での基本的なことさえ満たされない苦労を知ることは出来ない。

村を歩いている時には、ラジュ・クマルはピッタリと側について歩く。何かを話すわけではないのだが、しっかりと私を守っているのが良くわかる。日本人の面倒を見なさいと父親から厳命されたようだ。気温49℃を越えており、余りにも暑いため汗をかかない。すぐに蒸発してしまうのだ。驚くことに日陰に入ると汗が噴出してくる。

村の調査を終えて家に戻って来ると、すぐにラジュ・クマルは居なくなった。何処に行ったのかと探してみると彼は炊事場にいた。私達を迎えるために鶏を潰して調理をしていたのだ。羽をむしる。皮を剥ぐ。内臓を取る。足を切るなど、テキパキと鶏をさばく。そして、油に入れてチキンのから揚げなどを作ってくれた。その手際の良さにびっくりしてしまった。

ネパールだけでは無く、途上国の子ども達は良く働く。学校から帰ってきても遊ぶ時間など無い。農作業、家畜の世話、そして、家事。ハルディア村では男の子が料理をするのは当たり前。13歳の少年が鳥をさばいて調理をすることは決して珍しいことではない。子ども達は朝の4時ごろ起きて顔を洗い、朝食の前に仕事を始める。父親を助け、農作業をすること、母親を助けて家事をするのは当然のことなのだ。

ラジュ・クマルに「貴方の夢は何ですか」と聞いてみると「日本に行って料理の勉強をし、立派なコックになることです。」と整った顔を引き締めて目を輝かせ、力強く言った。

カンボジア王国で初めてのハンディキャップ児童学習クラスを訪ねて

みんなで元気に学んでいるカンボジアの首都プノンペン中心部から西へ40kmほど行くとセンソック地区がある。ここはかつてアンロンカガーン地区と呼ばれた荒野で、乾季には赤土の埃が舞い上がり、10mも見えなくなるほどだったし、雨季になると道がドロドロになって車で入るのか大変な地域だった。10年くらい前、プノンペン市は王宮近くのスラム街やゴミ捨て場に暮らす人々をこの地に半ば強制的にともいえる形で移住させた。

3000名もの子ども達が学んでいる

アンロンカガーンに学校を作ろうと計画した時には大きな不安が胸をよぎった。民衆の心は荒れ、貧困は深刻さを極め、暴力事件が頻繁に起きていたからだ。案の定、工事に入ると建築資材が毎日のように盗難にあう。火をつけられたときもある。建設作業員に対する集団暴行も発生し、とうとう発砲事件まで起きてしまった。工事を止めてしまおうと思ったことは一度や二度ではない。それでも何とか頑張りぬいて2002年5月に学校が完成した。そして、オーストラリア、インド、イタリア、別の日本の団体などが新たに校舎を建て、3000名もの子ども達が学ぶ大きな小学校となり、名前もプノンペン市公立センソック小学校と命名された。

今年の3月、2年ぶりにセンソック小学校を訪ねてみた。学校は緑に溢れ、教室では真剣に学ぶ子ども達の姿があった。校長先生と久々の再開に肩を抱き合う。「アジアチャイルドサポートが、この荒れ野に校舎を最初に作ってくれたからこそ、今のセンソック小学校がある。この恩は生涯、忘れません」と手を握り話してくれた。

ハンディキャップクラスの子ども達校長に連れられ各教室を廻り授業内容などの説明を受けていると、一つの教室に目が止まった。普通の教室と違い、飾りつけも派手で中に入ると積み木やおもちゃがイッパイ。先生や付き添いと思われる大人たちが数名居る。何と、この教室は障害を抱えた子ども達学ぶクラスだったのだ。本当に驚いた。何と、カンボジア王国で初めて、障害児を預かって教えるクラスが出来ていたのだ!障害を抱えた子ども達が笑顔で学んでいた。その姿を見て涙が出るほど感動した。

カンボジアでの障害者に対する人々の心は日本よりも厳しいと言っていいかもしれない。「前世で悪いことをしたから、今の世に障害を抱えて生まれてきたのだ。当然の報い。縁起が悪い」との考えを持った方が多い。障害を抱えた子ども達は自宅に閉じ込められ、悲惨な状況下に置かれている。その中で公立の小学校にハンディキャップを抱えた子ども達の教室が出来たのは、非常に画期的で重要なことなのだ。

大きな声で笑う少年、積み木に一生懸命

校長室のすぐ裏が障害者特別クラスだ。大きな笑い声か聞こえてくる。積み木を必死になって組み立てている少年や、楽器を叩いて喜んでいる子も居る。クレヨンで懸命に何かを書いている中学生ぐらいの少女もいる。活き活きとした表情を見ていると、こちらの方が元気をもらう。カンボジア王国史上初めての障害者クラスはアジアチャイルドサポートが最初に建設に取り組んだセンソック小学校から始まったのだ。この様な教室が、カンボジア全土に出来ることを心から願っている。