現地時間の平成27年4月25日午前11時56分、ネパールの首都カトマンズから北西約77kmを震源とするM7.8の地震が発生しました。翌月の5月12日には、最大規模となるM7.3の余震が発生。相次ぐ地震による被害は甚大で、8800名余りの方が犠牲となり、87万戸以上(一部倒壊含む)の家屋が倒壊しました。
(ネパール政府発表、6月30日現在)
4月25日の地震発生当時、観光地としても知られるバクタプル広場には、多くの観光客が詰め掛けており、現地スタッフもその場に居合わせていました。
突然ゴロゴロと地面の中で何かが動いているような異様な感じがしたと思った次の瞬間、激しく揺れはじめました。安全な場所に行こうにも、まっすぐに歩くことが出来ずにいると、目の前の寺院が、ゴゴゴゴゴーという凄まじい轟音と辺りを覆うような土煙を巻き上げながら崩れ落ちました。
ほとんど動くことも出来ないなか大きな揺れは一分もの間続きました。一瞬のうちに、目の前の世界遺産が崩れ去っていく光景を目の当たりにし、とてつもない恐怖と同時に言い様のない悲しさが込み上げてきました。
すぐに外の広場に避難するようにと施設の職員に言われたのですが、外に出るには建物の下を通り抜けなければならず、今にも崩れるのではないかという恐怖の中、一心不乱に走り抜けました。外の広場には、恐怖のあまり気を失った人、座り込んで動けなくなった人、泣き崩れている人など、200名以上の人が避難していました。
また、しばらくすると波のように大きく揺れる余震が起き、まわりの人みんなで抱き合いながら堪えました。その後も余震は続き、1時間ほどは広場から出ることが出来ませんでした。そのあいだにも怪我をした人たちが次々とバイクで病院に運ばれ、市街地でもかなりの被害が出ていると聞かされました。
余震が落ち着き、広場を出てカトマンズに向かうと、通り沿いの古い建物は倒壊しており、瓦礫に埋もれた人を助け出そうと必死でした。カトマンズで最も高い建造物(61.88m)ダラハラ塔も倒壊し、土台部分しか残っていません。倒壊した建物のそばを駆け足で通り抜け家へと急ぎました。
家までの道がこんなに長く感じた事はありません。家族全員が無事なのか、不安に駆られながら走り続けました。 家に辿りつくと家族んなが待っていて、全員が無事だったことに安堵し、その場にへたり込んでしまいました。幸いなことに自宅に被害がなかったのですが、家族を亡くした人や家を失ってしまった人のことを想うと胸が張り裂けそうになりました。
その日の夜は、停電で真っ暗な中、懐中電灯の灯りを頼りに、乾麺を調理もせずに、ポリポリ食べて凌ぎました。一夜明けた朝も街の混乱は続き、実家のある村が心配で帰る人。カトマンズで帰る家を失い故郷に帰る人。市内の通りは、屋根の上にも人を乗せたマイクロバスが長い列をつくっていました。
普段は、ネパール軍兵士の訓練場として使われているトゥンディケール広場には、地震直後から人々が集まり始め、数万人以上の人が、テントなど仮設の住居を設置し、避難生活をはじめました。
現地スタッフからの連絡を受けたわたしたちは、緊急支援をすべく調査を開始しました。
パタリケット村では、幸いにも亡くなられた方は居なかったのですが、ほとんどがレンガ造りの古い家だったため、1100世帯のうち、993戸の家屋が被害を受けました。
当団体の建設した女性自立支援センターは、看板の落下などの軽微な破損はあったものの、躯体への影響はほとんどなかったため、家を失った人たちの避難所として利用されました。
完全に倒壊していない家でも、天井や壁に亀裂が入り、いつ完全に崩れるか分からない家の中では怖くて生活できないと、ほとんどの人が広場や家のそばに簡易テントをたてて避難していました。
また、山あいにある同村では、日中は気温30度を越すほどの暑さですが、日が暮れると15度まで下がってしまいます。毛布などの寝具は瓦礫に埋もれて使う事ができず、かろうじて取る事のできた少ない毛布に家族が身を寄せ合っている状況です。
調査結果をもとに、必要とされている「防水シート・毛布・米」などを緊急物資支援として届けることを決定しました。村での混乱を避けるため、村長をはじめとした有識者のメンバーで、特に緊急性の高い世帯のリストを作成し、村の3箇所で配布しました。
支援物資を受け取ったビマラ・ネウーパさん(女性36歳)「地震で家は倒壊してしましました。蓄えていた食糧も一緒に埋もれています。支援して頂いた防水シートや毛布と米で、昼の太陽の暑さと夜の寒さから開放されて、子どもたちにも食事を与えることが出来ます。日本のみなさんに心から感謝します」
カトマンズ市内にあるHIV感染者保護施設では、ネパールでの休みにあたる土曜日ということもあり、掃除や洗濯、アイロンかけなど施設内の仕事をしていました。子どもたちと施設の3階に居たサンドラ・タマンさん(女性43歳)は、突然の大きな揺れに驚き、泣き叫ぶ子どもたちのそばに駆け寄ろうとしました。しかし、自分自身も歩く事ができず、床を這いずりながら、なんとか子どもたちを抱きかかえ、タンスの中に隠れました。
揺れが収まってから外に出て泣きながら近くの広場に向かいました。そこには近隣の人たちも集まっており、防水シートで仮設のテントを造りはじめていたので、わたしたちも同じように避難生活をはじめました。
数日後には、建物の大家さんが被害の確認に来て、何か所かヒビが入っているので、余震が落ち着くまでは、上の階に上がらないようにと言われました。
施設には、家が崩れて住む場所を失ってしまった元施設利用者も、着の身着のままで避難してきています。また、施設の在るカトマンズ市内では、衛生環境の悪化による感染症が懸念されはじめてきています。そのような状況を考慮し、蚊取り線香や蚊帳、清潔なタオル、石鹸、洋服などの物資を支援しました。
地震発生後、建物内に居たがらない子や、引きこもる子、情緒不安定な子など、子どもたちへの影響を重く受け止めた政府は、ネパール全土で5月30日までの休校措置をとりました。
当団体が給食支援を行っているマハンカール小学校の子どもたちにも同様な報告があったので、みんなで一緒に体を動かしリラックスできる支援が必要と判断し、なわとびやサッカーボールなどの遊具や非常食ともなる乾麺を届ける事にしました。
マハンカール小学校に物資を届ける際には、トラックへの積み込みから現場の配布まで、元担当教師だった方もボランティアとして駆けつけてくれました。
配布漏れなどが出ない様に、出席簿を確認しながら、先生が名前を読み上げ、一人ひとりに手渡しました。もらった箱を大事そうに抱える子や、小さな体で一生懸命に箱を持つ低学年の子など、とても嬉しそうでした。
また、小学校周辺の35世帯は、特に生活が厳しいなかでの避難生活となっているため、米や豆、油などの食料支援を行いました。
地震のとき、崩れる家から逃げる際に、足をケガしてしまったナン・ヴィカさん(52才)「足が不自由になって畑仕事が出来ず困っているなか、日本の皆さんからの支援でなんとか生活できています。ありがとうございす」と話してくれました。