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伝伝虫通信バックナンバー 通巻40号 ②
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東日本大震災「思い出プロジェクト」
左から、代表理事池間哲郎、トミーレメンゲサウ大統領、バクレイ大臣

2016年9月26日コロール州エイジングセンターにおいて、車椅子50台、ラジオ180台の譲渡式が執り行われました。

式典では、会場満席の100名以上の村人が集まり、なんと現職のトミーレメンゲサウパラオ大統領にご出席いただき、支援を要請した社会文化省バクレイ・テメンギル大臣等が出席下さりました。大統領から「この地を自分の家だと思って下さい。永きにわたり、パラオと日本の交流を続けて行きたいと思います」そして大臣から「これでラジオから外の世界の情報を得ることが出来る。お年寄りには重要なことです」と話し、感謝の言葉を頂きました。

式典はパラオの皆様に大歓迎していただき大いに盛り上がりました。

大臣から直接の支援要請

2016年3月、バクレイ・テメンギル大臣より「パラオにとって日本は本当に必要な存在です。現在、パラオの国家財政自体が深刻なため同省の予算も非常に限られており、必要なことでさえも賄い切れません。車いす50台、ラジオ180個の支援をお願いしましす」との支援要請がありました。

バクレイ大臣はご主人と一緒に毎週日曜日に病院を訪れ、交通事故で下半身不随になった若者の入浴介助や、シーツ交換などをしています。車椅子の重要性を体験を通して知っています。総合病院のような大きな病院でも全く足りず、患者の移動に大きな支障をきたしています。

車椅子の寄贈

またコロール州エイジングセンター所長からも当施設で、地域の高齢者が集いレクレーション、伝統の籠を編んだり、交流を楽しんでもらっています。歩いて来るのが基本ですが、足腰が悪くなったお年寄りは通えなくなり健康状態も確認出来なくなってしまいます。孤立化を防ぎ健康維持のため車椅子支援は必要との後押しがありました。

認知症予防にラジオは有効

更に市長より、高齢者は家族と住んでいますが日中、若い人たちは働きに出てしまう。その間は一人きりで過ごすことが多く、誰とも交流する機会がないため認知症が進む恐れがあり、その予防としてラジオは是非とも必要との説明がありました。

倉庫に積まれた物資、車椅子50台ラジオ180個
倉庫に積まれた物資、車椅子50台ラジオ180個

毎日なんとなく過ごすと脳が活性化せず萎縮するそうです。ラジオから流れる音楽・ニュース番組・天気予報を聴くだけでも、想像力を養い、前頭葉を刺激し、認知症を予防する可能性があると言われています。そのために審査を重ね車椅子50台とラジオ180個の支援を決定しました。

代興奮の式典

パラオの人は南国らしくのんびりしていて、積極的に人前に出てこないかも知れないとの予想を裏切り100人以上の島民が押し寄せ、会場がいっぱいになりました。日本スタッフは日本らしい衣装でということで甚平で参加しています。

パラオは日本との結びつきが深いため、両親が日本人、日本のお名前を持っている、また日本語を話す方もたくさんいました。

式典は、大統領・大臣も見守る中、厳かな雰囲気で始まります。今回の支援は当団体の日本のサポーターからのご寄付で実現しましたと伝えると、島民の皆さんから日本人にお礼を言いたいと多くの方が手を挙げて下さいました。「私は日本人が好きです。責任感が強いから」「日本のありがたさは忘れません」「日本のみなさんが僕の兄弟です」「日本に帰ってもパラオのことを忘れないで下さい。私たちもあなた達をのことを忘れません」との言葉が続きます。

式典会場
式典会場

また1人の女性が唄いながら踊ると会場全員が唄い出し、映画のような美しいハーモニーになり、会場中から大拍手が巻き起こります。島民の皆さんが一体となって私たちを楽しませようとしています。踊りを披露した女性から「私たちの踊りを覚えて下さい「と、言って下さいました。

女性たちは積極的に前に出てきますが、男性ははにかんでいるのか席を立たずに楽しそうに眺めているだけです。ただ娯楽施設がほとんどない地域なので本音では大勢で集まり話すのは好きなようです。

大臣が1人ずつ名前を呼んでラジオを渡すと、喜んでその場で箱から取り出し、嬉しそうに聴き入っているお爺さんもいました。

代興奮の式典

ベニトさん(64歳)は美空ひばりの歌を口ずさんでいました。どこで覚えたのと聞くと「若いころ映画を観て覚えた。日本の食べ物も大好きになったよ」と懐かしそうに振り返っていました。エイジングセンターで伝統工芸を彫刻している時が一番楽しいと言っていました。

会場の一番後ろに座っていたフロージャノさん(74歳)。こちらが話しかけても、あまり答えてくれません。機嫌悪いのかなと思っていましたが、帰る間際になって握手をすると、手に力を込めて離そうとはしませんでした。そしてやっと聞こえるような小さな声で「ありがとう、またこの島に戻っておいで」と。言葉は少なくても内に秘めた優しさは十分に伝わりました。

日本とパラオは深い関係にあります。

1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議によってパラオは日本の委任統治領になりました。日本は病院、道路、住環境などを整備、近代的な街並みへと変わり、さらに学校も建設し日本語教育も開始しました。多くの日本人が住み着きましたがパラオ人に対して差別がないようにしました。

大東亜戦争末期パラオは日米の戦場となります。日本軍は民間人を戦火に巻き込まないよう指令を出し、船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に疎開させました。日本軍は圧倒的軍事力で優位に立つアメリカ軍に敗退、1万人以上の戦死者を出しました。

パラオ人は自分たちの命を救ってくれた日本兵の遺体を手厚く葬りました。戦後71年、その墓地は今でも美しく整備されています。日本から遠く離れたこの島で、日本人が忘れかけたお墓を守り続けています。これからも活動を続けていきたいと思います。

日本人墓地。とてもきれいに整備されていました。
日本人墓地。とてもきれいに整備されていました。
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